西尾維新の文法に酔いしれる
こんちわ、クオンです
さてこの記事はタイトル通り私ことクオンが西尾維新作品を好きだというだけの記事であり、けっして作品の考察などの文学的な何かでは無いという事だけ先に記しておきます
キャラクターやテーマについてはまたの機会にもうちょっと西尾維新さんの作品を読んでから
前置き終了
私が初めて西尾維新作品と出会ったのは2017年の正月から一週間が経った頃、新年早々インフルエンザに罹った私はあまりの暇さにアマゾンプライムビデオで何か面白いアニメはないものかと物色してた時にたまたま見つけたのが『化物語』でした
そう自分はアニメから入ったクチです
まあきっかけがインフルエンザってのが全く劇的でも運命的でもないわけなんですが、
これが私と物語シリーズ、ひいては西尾維新作品とのファーストコンタクトでありワーストコンタクトだった
そっから
アニメ版物語シリーズを全作見て、
原作もアニメ化されている所(終物語)まで読んで、
戯言シリーズを全巻読了し、
人間シリーズを読み進めてる
てな具合に思いっきり沼にはまってしまってる最中なんす
だが改めて書き並べてみると西尾維新作品に触れて一年半の糞にわかでして、
「にわかが何語ってんだ!」
とお怒りになるかもですが、沼から抜け出せない哀れなオタクの戯言だと思ってどうか聞き流して下さい
本文
今回、何て書こうか色々と読み返してて思った事ですが、
結論から言うと、西尾維新さんの文章は、詩的というよりは音楽的で、文字は音符のようだと思ったわけです
西尾維新を語る上で“言葉遊び“というフレーズがよく用いられます
ここで”言葉遊び“の意味を調べてみると、
『言葉遊び(ことばあそび)は、言葉の持つ音の響きやリズムを楽しんだり、同音異義語を連想する面白さや可笑しさを楽しむ遊びである。
本来の意味から転じて、支離滅裂な詭弁や戯言を指して「言葉遊び」と呼称することもある』
(ウィキペディア参照)
つまり言葉は音であると
この正規の文法に捉われないテンポ重視の”西尾維新文法”によって我々読者は西尾維新さんの奏でる文章が心地よく感じるのだと思う
例)
「偽物のほうが圧倒的に価値がある。そこに本物になろうという意思があるだけ、偽物のほうが本物よりも本物だ。」
『偽物語』より
「殺して解して並べて揃えて晒してやんよ。」
『人間シリーズ』より
「いいか、きみ達。僕はスカートを穿いた女性を見れば、それだけでどきどきしてしまうけれど、必ずしもその中身を見たいわけじゃないんだよ。むしろスカートの揺れ具合、風になびくスカートを見るだけで十分満足なんだ。スカートに比べれば中身なんておまけだよ。中身が見えたら逆に目を逸らすくらいだ」
『鬼物語』より
う〜む、やっぱ台詞中心になってしまうか
最後のはよくわかんないが...
台詞は台詞でもキャラクター同士の掛け合いとかもよりリズムを感じやすいですし、実際に読んでもらった方が早いかも(結局そうなる)
特に好きなフレーズ
“こうして。適当に曖昧で機械的な有耶無耶が、凡庸なくらいに何事もなく、不自然なほど空疎な確実さを伴って、さながらあやふやで真っ赤なおとぎ話のように終わっていく。”
『戯言シリーズ』より
ちなみに、西尾維新さんの展示会『西尾維新大辞典』では速筆で知られる先生の執筆スピードを体感できるライブタイピングがあり、次々と文字を打ち込まれていく様子はまさに鍵盤を叩いているよう
シメ
音楽家の殺人鬼・零崎曲識
「音楽家は
人の形をした楽器だ。
疲労することはあっても
演奏時間の限り、疲労を意識することなどない」
彼がキーボードを叩き続ける限り
新たなキャラクターが生まれ、新たな物語が始まる
彼が打ち出す文字は音符で、彼の創造する物語は曲である
そんな彼の演奏が鳴り止むことはなく、
彼の他とは違う独特な文法に
私は酔いしれ続ける
なんて、
戯言だけどね。